昭和の初めまで、琵琶湖の周りには、琵琶湖から切り離されるようにしてできた40あまりの内湖(ないこ)と呼ばれる、湖がありました。
日本では第2次世界大戦の最中から食糧が不足し、食料を生産する農地を増やすため、国内のいたるところで開拓や開墾、また干拓工事が行われましたが、琵琶湖では、昭和40年までに16の内湖が干し上げられました。その総面積は25.2km2にもおよびます。
内湖のほとんどは水深2mほどと浅く、また、干拓時に塩抜きの必要がない淡水であったため、海よりも干拓しやすかったのでしょう。
中でも大中の湖(だいなかのこ)干拓地は、東西3.7km、南北3.6kmのフライパンの形をしていて、11.5km2(1,150ha)の面積があり、規模が最も大きく、工事には実に21年間もの歳月を要しました。
最も低い所は、びわ湖の水面より3m低くなっており、干拓地のまわりを堤防(現在は道路として使用)がとりまいています。この堤防により外側の西の湖やびわ湖、承水溝と呼ばれている大きな川の水が中に入ってきません。
また干拓地の真中に掘られた幹線排水路(水を汲み出す中心となる水路)の終点のポンプ場から、絶えずびわ湖の方へ排水しています。この守りがないと元の内湖に戻ってしまいます。
ここで入植者が農業を始めたのは昭和41年からで、最初の年からお米が共同で作られました。
この大中の湖干拓地の農業は、食糧の増産とともに、日本の将来をになう理想的な農業を営むモデル農村を築こうという目的ももっていました。
そのため、1戸の水田は、滋賀県の一般農家の約5倍=4haの広さです。
また、1枚の水田の広さは125m×120m=15,000m2(1.5ha)という日本で最も広い水田に作られています。
これは大きなトラクタやコンバイン、あるいは飼料作物用の大型機械が運転しやすく、能率よく仕事ができるようにするためです。
ここには南部(旧蒲生郡安土町)、北部(能登川町)、西部(近江八幡市)の3つの集落があり、合わせて188戸の農家が生活しています。
最初は米を増産する目的で始められた干拓地農業は、国民の食生活の変化により、昭和45年ごろから米づくりだけでなく野菜や畜産を取り入れることになりました。
46~48年ごろは、干拓地の中でも水はけのよい所を選び、スイカ、キャベツ、ハクサイなどの露地野菜がつくられましたが、値段の動きが激しく、天候による出来ムラのため、次第にビニルハウスやガラス温室でトマト、キュウリ、ナス、メロン、イチゴやホウレン草などを年中栽培する施設園芸農業がとりいれられるようになりました。
今では野菜のパイプハウス約75,000m2、またガラス、プラスチック鉄骨温室48,000m2、ストレリチア(極楽鳥のような美しい花)などが約 67,000m2、というように大きな温室の団地となっています。一方、カブや大根、スイカなどの露地野菜をたくさん作る農家も多く、滋賀県の野菜の主産地となっています。
また、46年頃から酪農や養豚のほか肉牛の経営が始まり、約7,000頭が45戸(平均1戸当たり155頭)の農家に飼われています。この肉牛の素牛は北海道にある牧場で育てています。また、牛ふんから肥料にするプラント(工場)も干拓地の中にあります。
この大中ではトラクタにとりつけられたモアー(牧草をかりとる機械)や、同時に刈り取った牧草を集めて車に積み込むワゴン車、堆きゅう肥をまきちらすマニュアスプレッダ、あるいは干し草や切りワラを集めて荷づくりするヘイベーラなどの珍しい大型機械の作業や、1戸で200~300頭もの牛を飼うことのできる大型の畜舎などを見ることができます。
滋賀県のほとんどの農家は、農業のほかに、勤めに出たり他のいろいろな仕事をしている兼業農家ですが、ここ大中は、農業にうちこみ、農業の収入だけで生活している専業農家の多い所として注目されています。